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【2006年5月9日】
「母のたこ焼き」人気アツアツ──こだわり高じて開業/家庭風の味、OLも支持
たこ焼き居酒屋を切り盛りする井手美和子さん(大阪市福島区の福ちん)
たこ焼き居酒屋を切り盛りする井手美和子さん(大阪市福島区の福ちん)
 なにわの味、たこ焼き。酒のつまみでたこ焼きを楽しむのも「粉もの好き」の街の大阪ならではだ。たこ焼きにこだわった女性が一念発起してたこ焼き店を開業、家庭風の味と店づくりでサラリーマンらの人気を集めている。

  大阪市福島区。JR東西線の南、福島天満宮の前の狭い路地を入ったところに、たこ焼き店「福ちん」の赤ちょうちんが見える。店はカウンター席のほかはテーブル席が1つと円卓を置いた座敷席が1つ。小さな店が常連客で毎晩にぎわう。

 店を営むのは井手美和子さん(58)。2000年7月7日、53歳の誕生日に店を開いた。

 店は井手さんの実家。父親が亡くなり空き家状態だったのを改装した。1部屋を丸ごと取り壊して厨房(ちゅうぼう)とカウンターを設置、玄関がそのまま出入り口だ。座敷席には居間を開放した。井手さんはその店舗兼住宅に住んでいる。

 ●自己流で自然体

 サラリーマンと結婚、福岡県太宰府市に25年間住んでいた。離婚を機に大阪に戻って実家にたこ焼き店を開いた。福岡時代は自宅で洋裁の仕事をしていたが老眼でままならなくなっていた。「洋裁の次に子どものころから好きなものがたこ焼きだった」。開店資金には貯金を充てた。

 中学時代から友だちを呼んで「たこ焼きパーティー」を開くのが好きだった。「これが大阪のたこ焼きよ」。福岡時代もパーティーで友人に振る舞っていた。

 たこ焼きは自己流。修業はしなかった。「私のたこ焼きを食べた人は『これなら商売にもなる』と褒めてくれていたし、そもそも大阪人は自分のたこ焼きが一番と思っているから」と言う。

 初めは近所の子どもに食べてもらうつもりだったが、実家の周りに子どもは少なかった。開店を手伝ってくれた友人から「やっぱりビールも欲しい」と言われ、客の要求に応えるうちにどんどん居酒屋に近い形態になった。

 たこ焼きの具は昔から得意だったチーズやミンチのほか、タコが苦手の客のためにちりめんじゃこを新たに開発した。

 結婚して北九州市に住む娘は年に1回の里帰りの折に顔を出すという。「お客さんの要望に合わせるのがいちばん」。生まれ育った場所で、これからも自然体でいくつもりだ。

 ●母が“一念発起”

 たこ焼き好きが高じ、女性が一念発起して店まで開くのはいかにも大阪。親子で挑戦する例もある。

 京橋。オフィス街の「大阪ビジネスパーク(OBP)」を寝屋川の対岸に望む場所に、たこ焼き店「美輝(みき)」がある。OBPの高層ビル群とは対照的なこぢんまりとした店だ。

 店を切り盛りするのは鈴木郁子さん(45)。1995年4月に母親と開店した。店名の「美輝」は母親の旧姓の三木から取った。

 開店のきっかけは専業主婦の母親が食べたある店のたこ焼き。「大阪のど真ん中のたこ焼きがこんな味をしてていいのか」。大阪人らしいこだわりがたこ焼き店に向かわせた。

 母親の実家の前の駐車場のスペースを店にした。祖父はこの家で製めん所を営み、叔母はお好み焼き店を営業していた。「粉もん一家」の血が騒いだ面もあった。母親はたこ焼きの修業をして開店にこぎ着けた。

 郁子さんは当時、百貨店の販売員をしていたが、その年の1月に阪神大震災が発生。神戸地区の販売員が余剰になり、人員調整のあおりで職を失った。母親を手伝うことになった。

 当初は駐車場にプレハブの店舗をつくり、近所の客を相手にするつもりだった。店の赤ちょうちんが対岸の会社員の目に留まり、仕事帰りのサラリーマンやOLがやってくるようになった。駐車場の空きスペースにいすを出して食べる客が増え、今はそのスペースも店の一部になった。

 75歳になる母親は数年前から店には立たなくなり、最近は入院して療養中。見舞いに訪れるたびに「店はうまくいっている」と報告している。

 たこ焼きはソース、しょうゆ、キムチ、梅など。基本的には母親のレシピを受け継いでいる。最近になって「ようやく料理が見えてきた。もっともっとおいしくできる」。旬の材料を使うなどして品ぞろえに幅を持たせるようにしている。今の季節はホタルイカのたこ焼きが売り物だ。

 「たこ焼き店をやるのは親孝行でもあり、おじいさん孝行でもある」と話す郁子さん。「通りを歩く人の笑顔を見ながら焼き続けていたい」と息長く続けていくつもりだ。
(大阪経済部 小木曽由規)




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